夕陽の中のネコのいったい何が僕の心を揺さぶったのかは、結局よくわかりませんでした。ただ何となく思ったのは、かつて子供の頃にもこんな風景があったのではないかという事です。
小さな頃、僕は北陸に住んでいてやはり茶トラの雄ネコを飼っていました。といっても面倒をちゃんと見ていたわけではなく、遊ぶ相手がいない時に、猫じゃらしを彼にパタパタやって、暇をつぶしていたくらいの付き合い方でしたが。
おとなしいネコであまり鳴き声もあげず、周辺のネコともあまり関わらず、というかよくいじめられていたみたいで、時々目の横にキズを作って帰ってきたりすることもありました。
彼は西の縁側がお気に入りの場所で、よくそこで日向ぼっこをしていました。果たして毛がキラキラしていたかどうか、子供の僕はそんな事まで見ていませんでしたが、縁側に行けば彼がいる事だけは自然にわかっていました。
ある日、夕方に外遊びから帰ってきた僕は、ネコと少し遊ぼうと思ったのか縁側に行ったのですが、ネコはそこにはいませんでした。子供なのでそんな事は大して気にもしないで、違う事に関心は向いてしまったのでしょうが、結局その日寝るまでネコの姿は見ませんでした。
翌日も、その翌日も学校から帰ってきてもネコはいなくて、さすがにおかしいと思ったのか祖母に「近頃いないね」と聞いてみると、「もう逝ってしまったんだろう」という返事でした。
「どこへ行ったん?」
「あの世だよ」
「え?死んだんけ?」
祖母はネコは自分の死期を悟り、その姿を見られないようにいなくなってひっそりと死ぬのだと教えてくれました。
子供の僕にはとてもインパクトの大きな話で、「そうなのか、あいつは死んだのか」と何か感動に近い気持ちを抱いていたような気がします。本当にそのとき死んでしまったのか、その後もどってきたのか記憶に無いのですが、確かにそのネコは最終的にはある日を境にいなくなってしまった事は事実です。
そんな事を思い出しながら、でも思い出してみると、それが原因で悲しさがこみ上げたわけではない気がしました。
よく分からないなりに考えてみたところ、茶トラのトラキチを見ている時に、彼が何かを静かに受け入れているような気がしたのではないかと思うのです。
彼は人間でいうと70歳以上の高齢ネコです。特に大きな病気もせずにこれまで平和に生きてきたけれど、夕焼けに染まりながらたたずんでいる姿は、まるで自分の人生の記憶を、間もなくこの世を去る前に整理整頓しているように見えたのではないかと。
(ネコとしては)長かった人生にはいろんな事があって、いい事もあったけど思い出したくないような悲しい事もあったはず。でも今となってはどちらも自分の人生の記憶だし、ちゃんと受け入れてから行こう、と。
もちろんネコがそんな事を考えているとは思いませんが、要するにそれは僕自身の心の動きなのだろうなと思います。
みんなと同じように、僕もそれなりにいろんなものを抱え込んで生きてきました。
忘れてしまいたい事もそれなりにあります。でも忘れてしまう(避けて通る)のではなく、自分の人生の一コマとして「受け入れる」という選択肢もあるのではないかと最近は思うのです。
若い時はとにかく忘れようとしました。でも歳を重ねると、忘れる事は自分の人生のあちこちを切り取って捨ててしまう事のような気がしてくるのです。そんなあちこちが欠けている人生を抱えながら年を取っていきたくはありません。
正体不明の悲しみは、結局よくわからないままです。
でもその事をきっかけに、普段あまり考えない事を思う時間が持てました。
歳を重ねていくという事は、いろいろと自分に向き合う事が増えるものだなあと、いうのが実感です。
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